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連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第6話

掲載日 : 2006/4/7

 釈尊は、一代五十年の間、お弟子達に対して説教されています。
人間だけでなく、大宇宙に存在する全ての森羅万象は、皆悉く妙法の存在であるという、高度な内容をもった「諸法実相論」や「一念三千論」というような、深遠な教えを初めから説いても、小学生に大学の講義をするようなものですから、程度の低い方便の教えから次第に高い教えを説いて、最後の八年間に大乗仏教の真髄である、法華経を説くという教育方法を用いられたのである。

このように、比較的解りやすい小乗仏教から次第に順序を経て、高度の大乗仏教へと導き、最後に出世の本懐を果たすために法華経を説かれたのですが、釈尊一代五十年の教説を総括して、法華経以前に説かれたお経は全て「方便の権経」と判定します。
しかし、このように判断できるのは、教主釈尊に限ります。釈尊は法華経の序文「無量義経」説法品に「諸の衆生は性欲不同なり。性欲不同なれば種々に法を説く。種々に法を説くことは方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。この故に衆生の得道差別(しゃべつ 不同の意)して、疾く無上菩提を成ずることを得ず。」と申されています。
この「無量義経」の「以方便力・四十余年・未顕真実」という有名なお言葉によって、法華経以前に説かれた諸経は、方便の権経であると、教主釈尊自らが断定されたのであります。

日蓮聖人は、いつの場合にも釈尊の「四十余年・未顕真実」という、最も権威ある経証の「ものさし」を当てて、法華経以前に説かれた諸経は方便の経で、この法華経こそ釈尊出世の本懐を述べたお経であると、判断されたのであります。
「方便」とは真実を説くための手段のことで、世間一般で「嘘と方便」と言っている場合の方便とは意味が違います。また、「権(ごん)」とは仮りという意味で、権大納言とか権講師とかいう階級も、大納言または、講師に昇進するための仮の手段として定められたもので、「権」のついている間は、本物ではありません。登記でも、仮登記では所有権が本登記に及ばないように、「権経」とは、真実を説くための仮の方便のお経という意味です。
さらに、具体的な譬喩で説明しますと、今ここに五重の塔を建てると仮定します。塔を建てるためには、足場が必要ですが、この足場は塔を建てるために仮りに造ったものですから、目的の塔が出来上がれば取り除きます。
真実の法華経という立派な宝塔が現れて例えば、仮に造った足場である方便のお経は必要が無くなりますから、取り除くのと同じ事です。

この様に、法華経以前に説かれた全てのお経を「方便の権経」と呼びます。

以上、申し述べた事を一言に要約しますと、「仏種」が説かれていない方便の権経では成仏できないのであって、末法時代の今日は、成仏するための「仏種」を説いた、法華経の「一念三千の仏種」でなければ成仏できないのであります。故に、日蓮聖人が当身の大事と申された「観心本尊抄」に「一念三千の仏種に非ざれば、有情(一切衆生)の成仏、木画二像の本尊は有名無実なり。」と教誡せられています。

 

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