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連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第2章 第6話

掲載日 : 2010/7/12

妙法蓮華経方便品第二 (四) 

菩薩行の実践と法華経

 菩薩が衆生済度をするためには、まず第一に、あらゆる生きものを救いたいという誓願をたてます。
それを1衆生無辺誓願度と言います。
次に、2煩悩無数誓願断で、一切の煩悩(迷い)を断ちたいと誓います。
更に、3法門無尽誓願知で、俗に八万四千の法門と呼ばれている、仏の教え全てを学び知ろうと誓います。
そして4仏道無上誓願成とは、この上ない仏の覚りに至ろうと誓うことです。菩薩行を起こすためには、このように四つの高大な決心をします。これを菩薩の「四弘誓願(しぐせいがん)」と申します。そして、「六度の行」を実践するのであります。

 仏教では、菩薩の修行を「六波羅蜜の行」、または「六度の行」と呼びます。「波羅蜜」とは古代インドのことばで、「到彼岸」、「度」等と漢訳されています。菩薩は”上求菩薩・下化衆生”の大誓願によって一切衆生を一仏乗の船に乗せ、生死の大海を渡って仏の岸に到達すべく修行します。

 さて、菩薩の「六度の行」とは、何を言うのでしょうか。

 第一が「布施の行」で、施し与えることです。それには、財施・法施・無畏施の三種があります。在家の方は、出家されたお坊さんにお布施を差し上げたり、生活に必要な品物を真心から供養することです。これが財施です。法施は、仏法の真理(妙法)を教えることで、それによって心の悩みを除き、安らぎを与えることです。無畏施は、死んでから地獄・餓鬼・畜生のような三悪道の世界に生まれることの無いよう、法華経の信仰と唱題行を勧めて、来世に対する恐怖心を除き安心を与えることです。財施は在家の行で、法施と無畏施は出家の行です。何れも、布施の心によって善根功徳を積み累ねることで、これは犠牲的精神のことであります。

 第二は「持戒の行」で、仏教徒が守るべき五つの戒めを「五戒」と言います。

(1) 不殺生戒 自分の命を大切にすると同時に、他の命も大切にして無益の殺生をしな いことです。日蓮聖人は『諸願成就鈔』〔(定)一九六一(縮)四一(類)一六七二〕に、
「生あるものは命ををしむ、命は第一の宝也。」
と申され、『理事供養御書』〔(定)一二六一縮続一二五〕に、
「いのちと申す財は、一切の財の中に第一の財なり。」 
とご指南になっています。
(2) 不偸盗(ちゅうとう)戒 盗みをしないことです。
(3) 不邪淫(じゃいん)戒 淫らな男女の交わりをしないことです。
(4) 不妄語(もうご)戒 嘘をついてはいけない、ということです。
(5) 不飲(おん)酒戒 心を狂わすような酒を飲んではいけないことでありますが、程度をわきまえれば、健康によい「薬酒」ともなりますので、仏は、その時その所の必要に応じて飲酒を認めておられます。このような戒を「遮(しゃ)戒」と呼んでいます。それに対して他の四つの戒の場合は、程度によってとか、時によってとかで認められるようなことではありませんので、「性戒(しょうかい)」と呼んで厳しく戒めています。

 

日蓮聖人のご遺文の中には、信者の方々から清酒や濁酒を供養されたお礼の手紙が、何 通も残っています。底冷えのする身延でのご生活、聖人のお身体を案じての「薬酒」であったことは申すまでもありません。洋の東西を問わず、昔からめでたい時も悲しい時にも酒でありますが、心を狂わすような酒は慎むべきです。まして、”目と心”を狂わすような飲酒運転は、絶対禁制であります。

    飲酒運転 行く先や地獄 親泣く妻泣く子供泣く

以上の「五戒」は、人に迷惑をかけないための、倫理道徳的精神と申しましょう。

 第三に、「忍辱の行」であります。この世を「娑婆」と呼びますが、娑婆とは、梵語で人間の世界・俗世間のことで、「忍」と漢訳されています。この世に存在するためには、いろいろな苦しみや悩みがありますが、この苦悩を耐え忍び、克服してこそ明るい幸せな人生が開けてくるものであります。何事も辛抱強く、耐え忍ばねばなりません。これは忍耐的精神のことであります。

 第四は「精進の行」で、何事にも精魂を込めて、ひたすら励むという努力精神のことであります。どんな職業、どんな立場であろうとも、常に最善を尽くすことが大切です。

 第五が「禅定の行」で、心を静めて深く考えることです。仏法の高遠な教理について思案することも、禅定の一つとして勿論結構なことですが、生かされて生きている不思議なこの身体が、そのまま妙法の存在である、と観念することが大切であります。親から頂いたこの身体は、意識するとしないとにかかわらず、各器官が調和を保ち、それぞれの役目をはたしてくれているから無事に生きているのであり、目には見えなくとも、み仏のご守護とご先祖のおかげで、生かされて生きている訳です。不思議と言えば、これ以上の不思議はありません。法華経には「深入禅定・了達諸法(提婆品)」とあり、「深入禅定・見十方仏(安楽行品)」とも説かれています。私達は、方便の教えと真実の教えとの違いを深く考えて、一仏乗真実の法華経の信仰に徹するだけの決断力と、沈着的精神が必要であります。

 最後の第六は「智恵の行」で、智能を啓発することです。人間が、万物の霊長と言われるのは、他の動物と違って、勝れた智恵を持っているからです。学問することによって智識は増大しますから、”止暇断眠”の覚悟で”行学二道”に精進してこそ、智恵行であります。この行に励むことによって、三乗方便の教えと一仏乗真実の教えとの、噛み分けもできるようになります。これは、理智的精神のことであります。

 以上、六つの修行によって得た力を、衆生済度のために活用するのが、菩薩行の実践であります。しかし、この「六波羅蜜の行」を完全にできる人は、末法時代の今日、日蓮聖人とお弟子の日朗上人・日像上人の他にはありません。伝教大師は、「末法に持戒の者あれば、市(街)に虎あるが如し。」と予言されています。

 私達は、日蓮大菩薩と日朗菩薩・日像菩薩が、末法の世に菩薩行を成し遂げられたことに対して、心から感謝報恩のお題目を忘れてはなりません。釈尊は、法華経の序文として説かれた『無量義経(十功徳品)』に、「法華経を信ずることによって、六波羅蜜の功徳が具わる。」と説かれており、日蓮聖人は『観心本尊抄』に、「法華経を信じ、唱題行をすることによって、六波羅蜜(六度)の行の功徳が頂ける。」と、ご指南されていますから、くれぐれも身・口・意に、お題目のご修行をお勧め申し上げる次第です。

 方便品の御製

迷いそめし 心の末にひかれ来て 本のさとりに かへりかねぬる 九十二代 伏見天皇
よしあしも わが植ゑおきしたねなれば 人を難波の うらみざらなむ 九十九代 後亀山天皇
十寸(ます)鏡(かがみ) 曇らぬからに知られけり 向はゞ影の うつるべしとは 百三代 後土御門天皇
本あらの 小萩の花ももろともに 末葉の露と 散りし色かな 百七代 後陽成天皇

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