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連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第2章 第27話

掲載日 : 2012/5/19

妙法蓮華経如来寿量品第十六 (中)

仏の三身について

 寿量本仏釈尊の本体をどのようにとらえるか(仏身観)については、古来より学者の間で、仏身論と申して大いに議論がありますので、ここで三身とその力用(はたらき)功徳について簡単にご説明致します。

 三身とは「法身」・「報身」・「応身」の三つで、寿量本仏釈尊には、この法・報・応の三身の徳が具わっています。まず「法身」とは、仏の証得された真理そのものを人格化した名称で、真理には生滅がなく、従って始めも終りもありません。「報身」とは、釈尊は無限の過去に菩薩行を修し、真如の妙理を徹見され宇宙の真理は「妙法」なることを証得されたのですが、この実修実証によって、万徳荘厳の光明に耀く智恵を果報として具えられた仏さまであります。その報身如来が、衆生済度のために身を現じて、生滅の相を示された仏を「応身」と申します。すなわち、三千年の昔インドにご出現になり、十九出家・三十成道・八十入滅された歴史上の釈尊であります。この応身仏を、「化身」とも「変化身」とも申します。

 中国の釈尊と尊称された天台智者大師は『法華文句』巻第九に、天親菩薩の『法華論』によって、法・報・応の三身について詳しく説明されています。


寿量本仏は報身仏

 天台大師は『法華文句』に、「如来寿量品」の「如来秘密・神通之力」の一文を釈して、次のように申されています。「如来の二字は三身相即の仏を示し、秘の一字は一身即三身を義とし、密の一字は三身即一身を義とす。」そして「一身即三身なるを名けて秘と為し、三身即一身なるを名けて密となす。……仏三世に於て等しく三身あり。諸経の中に於て之を秘して伝えず。」と断じられているごとく、三身即一の深義は、釈尊出世の本懐たる法華経にのみ説き明かされた妙義であります。この三身如来の中で、どの仏身を中心に据えるかについて天台大師は、「報身」と指南されています。従って、日本天台の開祖伝教大師も報身仏中心であります。

 日蓮聖人も、本隆寺開山日真大和尚も、やはり報身仏中心であります。法身は寿命、報身は智恵、応身は慈悲であります。何れも大切ですが、寿命と慈悲があっても智恵が隠れていては衆生済度ができませんから、智恵の勝れた報身仏を中心に据えるのであります。この報身仏には、法身仏の徳も応身仏の徳も具わっています。これを「三身即一」と申し、寿量本仏釈尊にのみ具わった仏徳で、方便の諸経には秘して伝えずと断じられているごとく、法華経以外には説かれていません。

 自我偈に「慧光照無量・寿命無数劫」とあるのは、報身仏の活動と寿命の長寿なることを説かれたもので、報身仏の智恵の光によって無量の衆生を済度し、然も寿命は無限であることを説かれているのであります。寿量本仏の寿命は常住不滅でありますが、何故そのような長寿を得られたかと申しますと、それは諸の功徳の力であります。功徳を積まずして長寿の徳は頂けない故に「我れ本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命。」と説かれております。菩薩行の徳によって得た寿命が、尽きることのない果報をもつ常住不滅の如来ではありますが、衆生済度のために方便して涅槃を現ずるのであります。

 仏がいつまでもこの世に居れば、人間は善根を種(う)えず、五欲にのみ執着し、悪道に随ちることになります。ですから、「衆生済度の手段として入滅を示し、仏に対する恋慕渇仰の心を起こさせるために、非滅現滅するのである。」と申されています。世の中に出られるのも衆生教化のため、入滅されるのも衆生教化のためで、如何なる場合も衆生済度の目的から離れられたことはありません。

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