ミニ法話

「即身成仏」

記事:布教師 吉田 勝弘

 即身成仏とは、私たちがこの身(肉体)を持ちながらにして、仏に成ることを意味しています。つまり即身成仏とは、死んでからではなく、今生きているうちに、仏に成ります(成仏します)ということであります。

 私たち法華宗徒が、どんな時でも、いかなる場合でも、必ずお読みするお経に、妙法蓮華経如来壽量品第十六(お自我偈)があります。

 このお経の中に、『常住此説法(じょうじゅうしせっぽう) 我常住於此(がじょうじゅうおし) 以諸神通力(いしょじんづうりき) 令顛倒衆生(りょうてんどうしゅじょう) 雖近而不見(すいごんにふけん)』とあります。これを訓読しますと、「常(つね)に此(ここ)に住(じゅう)して法(ほう)を説(と)く、我(わ)れ常(つね)に此(ここ)に住(じゅう)すれども、諸(もろもろ)の神通力(じんづうりき)を以(もっ)て、顛倒(てんどう)の衆生(しゅじょう)をして、近(ちか)しといえども而(しか)も見(みえ)ざらしむ」と読みます。そして、その意味するところは、「常にこの娑婆世界にとどまって法を説き続けているのです。私(久遠の本仏・釈迦牟尼世尊)は、常にこの娑婆世界にとどまっているのですが、さまざまな神通の力によって、(心が)顛倒している衆生には、近くにいようとも見えないようにしているのです」というものであります。

 久遠の本仏であるお釈迦様が、私たちの目の前にお姿をあらわし、私たちの耳元で法を説かれているにもかかわらず、私たちにはそのお姿も見えないし、そのお声も聞こえません。そして、「その理由は、心が顛倒しているからですよ」と、お釈迦様は仰っています。心が顛倒しているから、考え方が真逆になっているから、せっかくお釈迦様がお出ましになり、法を説いてくださっているのに、私たちには“見えない・聞こえない”のであります。

 閑話休題。昔話の「兎と亀」です。兎はピョンピョンと走り、みるみるゴールに近づきますが、途中で油断して居眠りをします。この間に亀は先にゴールに着き、亀の勝ちとなります。
油断大敵。一歩一歩の努力の積み重ねが最後は勝利する。だから「油断するな、亀のように努力しなさい!亀のように生きなさい!」と私達は子供の頃に教わり、私達は子供に教えてきました。

 お釈迦様から見れば、この昔話は真逆になります。お釈迦様なら、“亀になってはいけない”と仰います。私達は「亀に成りなさい」と言い、お釈迦様は「亀に成ってはいけない」と仰います。

 なぜ亀に成ってはいけないのでしょうか?
「兎さん・目を覚ましてください!兎さん・起きてください!。私と一緒にゴールを目指しましょう!」と声が掛けられるのが菩薩であり、私が(私さえが)勝つためには、声を掛けずに黙って素通りしてしまうのが凡夫であります。だから、居眠りをしている兎の横を、黙って素通りしてしまう亀に成ってはいけないのです。私が(私さえが)という「我欲の凡夫」に成ってはいけないのであります。

 このように、お釈迦様から見ると、私達の心(考え方)は顛倒しているのであります。だから、私たちにはお釈迦様のお姿もお声も“見えない・聞こえない”のであります。この顛倒している心を正す特効薬が、色香美味のお題目(南無妙法蓮華経)であります。お題目を唱え続けることで、顛倒した凡夫の心を、正しい菩薩の心にすることができます。
正しい菩薩の心を持ったとき、私達はこの身を持って仏に成るのであります。その時、あなたの姿はお釈迦様のお姿と同じであり、あなたの声はお釈迦様のお声と同じなのであります。これを即身成仏と言います。菩薩になるため、命のある限り毎日毎日お題目を唱え続けましょう。

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