仏教Q&A

罪障

お経に『一切の業障海(ごうしょうかい)はみな妄想より生ず』とあります。業障(ごうしょう)は私たちの妄想から生じてくるものであると示されています。いわしの頭も信心からと申しますが、私たちの信仰の始めは、現世利益を得たいという場合が多いようです。このような信仰は大変浅い信仰と言わねばなりません。正しい信仰に入るための方便、仮りのものです。

信仰に入るまず第一の動機は、み仏さまを恋慕(れんぼ)渇仰(かつごう)し、自分は妄想により悪業の罪深い人間であると自覚して、罪障を消滅させるために信仰するのが正しい信仰であります。ですから、私たちが無始以来より積み重ねた罪業が、現在の暮らしや、考え方のさわりになっていると思うことであります。これを「罪障」というのです。

もともと、人間はその心の中に仏の世界から地獄の世界まで「十界」の性質が具わっています。私達は悪業の因縁が多く、自分の眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚機関を通して、過去・現在・未来にわたって悪業の因縁を重ねているのです。

法華経に『放逸(ほういつ)にして五欲に著(ちゃく)し悪道の中に堕ちなん』と示されている通り、私たちの罪障は多く深いものであります。自己を反省し罪障消滅を願うことは、信仰生活の大切なことであります。自分をふりかえりみることのできない人は、他人を妬み、のろったりする悲しい人であります。自分が正しいにもかかわらず、他人から迫害を受けるときも他人をうらまないで、反省懺悔(さんげ)する人々こそ真の信仰者であります。

日蓮聖人のような偉大な聖者、仏の使いとして末法に出現された大聖人でさえ、大難四ヶ度小難数知れぬほどの迫害を、宿業の報いであり過去世の因縁と反省されて、信念堅固な信仰を高揚されたのであります。

人間は、自己の反省懺悔の中に誠の心が目覚め、これが正しい信仰の道の精進につながるのです。幸福のために罪障消滅に励みたいものであります。


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