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連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第2章 第12話

掲載日 : 2011/2/2

妙法蓮華経授記品第六 (下)

法華経は大王膳

 釈尊は、まず舎利弗尊者に華光如来の授記を与えられ、次いで今また迦葉尊者に光明如来の授記を与えられました。迦葉と同じ仲間である目連・須菩提・迦旃延尊者達は、法華経に値(あ)い奉ることのできた喜びで感激の涙にむせびながら、一心に合掌して仏さまを仰ぎ見、声を揃えて申しました。「恰も飢えたる国から来た人が、突然にすばらしい山海の珍味を揃えた大王膳に出くわしたようなもので、これを食べてよいのかどうか迷ってしまいますが、そこで大王さまから、食べよというお言葉を賜れば、安心してそのご馳走を頂けます。私達も法華経を信ずれば必ず仏に成れる、ということは解りましたが、まだ本当の安心が得られません。どうか私達にも、法華経の信者として仏記を授けてください。」 
釈尊は、その願いに応じて、須菩提(しゅぼだい)には名相如来(みょうそうにょらい)、迦旃延(かせんねん)には閻浮那提金光如来(えんぶなだいこんこうにょらい)、そして目連には多摩羅跋旃檀香如来(たまらばせんだんこうにょらい)の仏記をお授けになりました。 平安時代中頃の歌人で、三十六歌仙の一人であり、『和漢朗詠集』の編者として有名な藤原公任(ふじわらのきんとう)(九六六~一〇四一)は、法華経を拝読して、
改めて 深き心をさとりぬる しるしを今日は 得るにぞ有りける
と、「授記品」のこころを詠んでいます。

仏記を授かる“唱題行”

 声聞・縁覚の二乗は「破石焦種」とされ、破れた石が元のごとくならず、焦種に芽が出ないように、いくら信仰しても「永不成仏」の者として、「仏記」を授けられませんでした。しかし、説くべき時節が到来し、一切衆生・全人類が成仏できる法華経を説かれたことにより、二乗の舎利弗・目連・迦葉・阿難等の仏弟子達は、正直捨方便して、一仏乗真実の法華経信仰に入ったのです。そして、一人残らず「仏記」を授けられるのであります。
江戸初期の法華経信者で、歌人としても有名な松永貞徳(まつながていとく)(一五七〇~一六五三)は、法華経を拝読して、
おのづから 蓮の上にのぼるべし 妙なるのり(法)の 御名をとなへば
と、唱題の功徳を詠んでいます。
日蓮聖人が、甲州身延山に於て建治二年(一二七六)七月二十一日付で、旧師道善御房のために、心血を注いでご執筆になりました『報恩鈔』〔(定)一二四九 (縮)一五一〇 (類)一九〕の結文に、
「此経文若むなしくなるならば、舎利弗は華光如来とならじ、迦葉尊者は光明如来とならじ、目ケンは多摩羅跋栴檀香仏とならじ、阿難は山海慧自在通王仏とならじ、摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏とならじ、耶輸陀羅は具足千万光相仏とならじ、三千塵点も戯論、五百塵点も妄語となりて、恐は教主釈尊は無間地獄に堕ち、多宝仏は阿鼻の炎にむせび、十方の諸仏は八大地獄を栖とし、一切の菩薩は一百三十六の苦をうくべし。いかでかその義あるべき、其義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。されば花は根にかへり、真味は土にとどまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。」
と申されていますが、聖人の法華経に対する絶大なる信仰が、血涙滴るごときご文章となり、拝読する者の心を打って止みません。
更に『法華題目鈔』〔(定)三九四 (縮)五八六 (類)二八五〕には、
「この経に値奉る事をば、三千年に一度華さく優曇華、無量無辺劫に一度値ふなる一眼の亀にもたといたり。大地の上に針を立てて大梵天王宮より芥子をなぐるに、針のさきに芥子のつらぬかれたるよりも、法華経の題目に値奉る事かたし。此の須弥山に針を立てて、彼の須弥山より大風のつよくふかん日糸をわたさんに、針の穴にいたりて糸のさきの、いりたらんよりも法華経の題目に値い奉る事かたし。……天台智者大師定て云く、他経は、但男に記して女に記せず。今経は皆記す等云云。」
と、ご指南されています。私達は、受け難き人身を受け、値い難き妙法に合い奉ることを得た幸せを感謝するとともに、現世安穏・臨終正念・後生善処を希うなら、唯ひたすらに余念なく、身・口・意に唱題行を続けることが肝要であります。

授記品の御製

八十八代 後嵯峨天皇    更けゆけば 出づべき月ときくからに かねて心の 闇ぞ晴れぬる

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