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連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第2章 第19話

掲載日 : 2011/9/20

妙法蓮華経見宝品第十一 (下)

六難・九易とは

 釈尊は、法華経信仰・法華経弘通の困難さを六項目に分け(六難)、人間では到底できない難しいことを喩えとして九つ挙げた上で(九易)、このようなことでも「六難」に比べれば容易であると申されました。お経文に従って、「九易」からご説明しましょう。

  1. 諸の経典はガンジス河の砂の数ほどあり、説くことは容易ではないが、「六難」に比べれば易しい。
  2. 須弥山を手に取って、他方の仏土に投げることは容易ではないが、「六難」に比べると易しい。
  3. 足の指で世界を動かして、遠く他国に投げることも容易ではないが、「六難」に比べると易しい。
  4. 世界最高の山上で、大衆のために無量の経を演説することも、「六難」に比べれば易しい。
  5. 手に虚空を握り、自由に歩き回ることは容易ではないが、「六難」に比べれば易しい。
  6. 大地を足の甲の上に置いて、梵天に昇ることも容易ではないが、「六難」に比べれば易しい。
  7. 大火に乾草を背負い、中に入って焼けずに居ることも、「六難」に比べると易しい。
  8. 一切経を人のために演説して、六つの神通力を得させることは容易でないが、「六難」に比べれば易しい。
  9. 人のために法を説いて、無数の衆生に阿羅漢の悟りを得させ、六つの神通力を具えさせることも容易ではないが、それでも「六難」に比べれば易しい。

 以上九つのことは、大変難しいことばかりであるけれども、仏滅後の悪世に法華経を信仰・弘通する困難に比べれば、さして困難ではないという譬喩であります。 
次に「六難」とは、以下の六項目であります。

  1. 仏滅後、悪世の中で法華経を説くことは難しい。
  2. 仏滅後、法華経を人に伝え、また人に伝えさせることは難しい。
  3. 仏滅後、悪世の中で法華経を読み、教えを実行することは難しい。
  4. 仏滅後、法華経を受持し、たとえ一人のためといえども、これを説くことは難しい。
  5. 仏滅後、法華経を聴聞して、その深意を問うことは難しい。
  6. 仏滅後、法華経を奉持することは難しい。

この、「六難・九易」を挙げての唱募によって、仏滅後に於ける法華経弘通の遺嘱となり、やがて本門「寿量品」に於て、仏の滅は真の滅にあらずとして、法・報・応三身常住の寿量本仏の開顕をなるのであります。

 

法華経は宇宙時代の生きた宗教

 多宝如来は法華経の証誠仏であり、同時に妙法を人格化した法身仏で、普遍であり永久不滅、絶対不変の真理であることを表し、釈尊の説かれた一仏乗の法華経は、この地球世界を仏国土となし、全人類を救済する宇宙時代の生きた宗教であります。
八十八代後嵯峨天皇は、「宝塔品」をお読みになって、

いにしへも 今もかはらぬ月かげを 雲の上にて ながめてしがな

と御製されています。
法華経の大信者である赤染衛門は、宝塔の涌現と分身仏について

大空に たからの塔のあらはれて 法のためにぞ 身をば分けける

と、「宝塔品」の意を詠んでいます。
日蓮聖人が、文永九年(一二七二)三月佐渡塚原にて、阿仏房から宝塔涌現の義を尋ねられたので送られたという、『阿仏房御書』〔(定)一一四四 (縮)八二五 (類)六八〇〕には、

「天台大師文句の八に釈し給ひし時、証前起後の二重の宝塔あり。証前は迹門、起後は本門なり。或は又閉塔は迹門、開塔は本門、是れ即ち境智の二法也。……末法に入って、法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。若し然れば貴賎上下をえらばず、南無妙法蓮華経と唱るものは、我身宝塔にして我身又多宝如来也。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり。宝塔又南無妙法蓮華経也。今阿仏上人の一身は、地水火風空の五大なり。此の五大は題目の五字也。」

とご指南されています。
阿仏房とは京都の遠藤為盛(ためもり)のことで、順徳上皇の北面の武士として、承久三年(一二二一)上皇が佐渡に流された時お供をして、そのまま佐渡に定住しておりました。日蓮聖人が佐渡配流の折、住まいとされていた塚原三昧堂を訪れ、聖人の論詰しようとして逆に折伏され、念仏を捨てて妻千日尼と共に聖人に帰依しました。そして、聖人が流罪赦免となって鎌倉へお帰りになるまで三年間、風雪を厭わず危険を冒し、櫃(ひつ)を背負って深夜真野から塚原まで四キロの道を往復し、聖人に温かい食を奉った方であります。
文永十一年(一二七四)三月、聖人は鎌倉へ帰られ、次いで身延へご入山されますが、その後も阿仏房は千里の道を遠しとせず、佐渡の海の幸を三回ご供養しています。三回目に身延に詣でた時は、九十歳でありました。その時、聖人から「日得」の名を賜り、翌弘安二年(一二七九)三月二十一日、九十一歳で歿しました。妻千日尼と心を合せ、ご供養の功徳を積まれたことは、法華信者の鏡であります。

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