ミニ法話

古き良き時代

記事:布教師 上島 隆明

先日、お参りに行った時に、おじいさんから小さい時の話を聞きました。

子供:「こんにちは。おばあちゃんから、畑で採れた今年最初の野菜をお寺に持って行くように言われたので持ってきました。」

住職:『ありがとう。一人で来たのかい?よく来たなぁ。じゃあ本堂に行って仏様に手を合わせて、お題目を三回唱えてきなさい。』

子供:「はい。」

本堂に行ってお題目を三回唱え、帰ろうとすると、住職が奥から蓋つきの一斗缶を出してきた。

住職:『偉かったなぁ。坊や。お題目を三回唱えたから、三つあげるね。』 中から出てきたのは、おやつだった。

子供:「ありがとう。」 と、言ってお菓子を三つ貰って帰った。

 昔は日常の中に、こんなことがたくさんあったのでしょうね。皆さんはどんな事を感じましたか?私は、この話を聞いて、いろんなことを考えました。例えば、

天地の恵みに感謝する心。
仏様に感謝する心。
親の心を素直に受け取る心。 
ちょっとしたご褒美を喜べる心。
信仰を勧める心。 
等々、忘れ去られたたくさんの心。

私ならどうするか? 
お菓子を三つあげるから、お題目を三回唱えなさいと言うんじゃないかな。

先にご褒美を与えることで、実践させる方法を選ぶかも。 
結論・結果(仏様を拝む・お題目を唱える)を求めすぎて、大切な心を育てるゆとりがなくなっているのでは?私たちの日常の中に同じような事はないでしょうか?

 例えば、「おやつをあげるから○○をしなさい!」とご褒美を餌にして子供に言う事を聞かせているのではないでしょうか?ひょっとして、ペットの躾をするようにして、ご褒美という餌で子供の躾をしてないでしょうか?
信心の在り方も同じように、ご利益というご褒美が欲しくて信仰する「ご利益信仰」になってはいないでしょうか?
我々は、子供の間にいろんな事を先祖から学んできた筈なのに、大事なことを忘れてしまったようです。ご先祖様たちが築き上げてきた古き良き時代の姿を思い起こして、素晴らしい所を見つけましょう。そこにあるお題目の心を、ご先祖様たちと同じように子孫に伝え残しましょう。それにはまず、ご自身がお題目を唱え手本となり、お題目を唱えるように勧めましょう。

  「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土(えど)と云も土に二の隔なし。ただ我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云も仏と云もまたかくの如し。迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬ば闇鏡(あんきょう)も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。ただ今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば必ず法性(ほっしょう)真如の明鏡と成るべし。深く信心を発(おこ)して、日夜朝暮(ちょうぼ)に又懈(おこた)らず磨くべし。何様(いかよう)にしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云なり。」(一生成仏鈔)

南無妙法蓮華経

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