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連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第2章 第2話

掲載日 : 2008/6/2

妙法蓮華経序品第一 〈上〉

霊鷲山に集った人々

釈尊は 霊鷲山で八年の間、出世の本懐を果たすために法華経を説かれましたが、この法華経説法の座には、舎利弗・目連・迦葉・阿難等の「声聞(しょうもん)」の人たちが一万二千人も集いました。「声聞」とは、釈尊の方便の説法を聞き、修行を累ねてきた人々のことです。

また、「十二因縁」を観じて断迷開悟しようとする「縁覚(えんがく)」の人もいますが、共に小乗の教理の船に乗って生死の大海を渡り、涅槃の悟りを得ようと修行に励みます。

どんなことを悟ろうとするのかと申しますと、自己の肉体も精神も煩悩と罪悪で汚れたものであるから、この悪業の固まりである人心を滅して「空」に帰し、再び苦しみの多いこの世には生まれてこないことを目的とするものです。これを「灰身滅智(けしんめっち)」といいます。この声聞と縁覚を「二乗」と呼び、法華経以前の方便の権経では成仏できなかった人々です。

この他、智恵の優れた文殊師利菩薩や慈悲心の深い弥勒菩薩、観世音菩薩等の菩薩方が八万人とお集まりになりました。

更に、梵天王・帝釈天王等も数万人の眷属を引き連れて来られ、八大龍王や天界の楽神である楽乾闥婆王・楽音乾闥婆王という音楽の神々や、阿修羅王・迦楼羅王、それに阿闍世王も、皆それぞれ大勢の眷属を引き連れて、法華経の法座に雲集してきました。

そして、皆、頭を大地につけて一心に合掌し、釈尊のご説法を今や遅しと待ち奉ったのです。この光景は、まさに釈尊を中心とした、一幅の大曼荼羅であります。

迹仏釈尊のご説法は、これら無数の聴衆だけでなく、日月・山川・草木・禽獣に至るまで、全て「心」のあるものを相手、対告衆として始まるのです。マイクも無い時代に、どうして何十万の聴衆に聞こえるかと、疑念を抱く方もあろうかと思いますが、それは神通力による、釈尊の梵音声という清らかな美しい、御声ですから、聴聞する人々の心の琴線にふれ、深く感銘させられるのです。


六瑞と慈問智答

すでに申し述べたごとく、「四十余年・未顕真実」の方便の権経では、智恵第一の舎利弗尊者始め、声聞・縁覚の二乗は成仏できないと宣言された「無量義経」によって、いよいよ法華経説法の序幕は開かれました。これを(1)「説法瑞」といいます。

この「無量義経」の御説法が終わると「無量義は妙法の一法より生ず」という深理を観念すべく、釈尊は静かに結跏趺坐して、無量義処三昧という禅定にお入りになり、身動きもされませんでした。これを(2)「入定瑞」と申します。禅宗などで座禅を組むのは、この姿を真似ているものです。

この時、釈尊は超能力の神通力をもって、天から大小紅白の曼陀羅華や曼殊沙華という栴檀の芳香を放つ美しい花びらを大衆の頭上にひらひらと雨のように降り注ぎました。これを(3)「雨華瑞」と呼びます。すると、たちまちこの娑婆世界が六種(動・起・涌・震・吼・覚)に震動したので、これを(4)「地動瑞」と名付けていますが、要は天地が感動したのです。人々は、こんな不思議な現象は見たことが無いので、今や容易ならぬ大説法が始まるものと、固唾をのんで歓喜の心に胸を膨らませ一心に合掌して釈尊の尊顔を見つめていました。これを(5)「衆喜瑞」と申します。

以上の五瑞は、次の瑞相を現すための前触れであります。まもなく、釈尊は眉間の白亳相から光りを放ち、東方一万八千の世界を普く照らされたのであります。すると、この光明の中に下は地獄界から上は天上界に至る六道の衆生の生態がまるでテレビのように写し出されたのです。何とすばらしい光景でしょうか。これを(6)「放光瑞」と申しますが、この光とはすなわち「仏智」であります。この智恵の光明は現象世界だけではなく、一切衆生の過去・現在・未来、三世にわたって迷悟善悪の真相を照見し、心の中までも見透かす大智恵の光明です。

このように、六つの不思議な瑞相が、霊鷲山を舞台として展開されたので、これを「此度の六瑞」と呼んでいます。しかも、この娑婆世界だけでなく、他の三千世界にも六瑞の現象が見られたので、これを、「他土の六瑞」と称しています。一会の大衆は、釈尊がこの不思議な神変の相を現されたのは何のためか、疑念を抱きました。そこで、慈悲の深い弥勒菩薩が代表して、智恵の優れた文殊師利菩薩にその理由を問いましたところ、文殊師利菩薩は次のように答えたのであります。

「私は、計り知れないほどの遠い過去世において、日月燈明仏が八人の王子のために無量義経を説かれた時、今の釈尊と同じように、六瑞の奇跡光明を放たれたことを覚えている。日月燈明仏には、妙光菩薩・徳蔵菩薩という二人のお弟子があり智恵の優れた妙光菩薩に対しては妙法蓮華経という尊いお経を説き示され、慈悲深く徳の高い徳蔵菩薩に対しては、汝は未来に成仏して浄身仏と称すべしとの記別(予言的証明)を与えて涅槃に入り給うたのである。妙光菩薩は、この尊い法華経を護持し弘通することを使命として、死に変わり生まれ変わって、八十小劫という長い年月に及んだ。日月燈明仏の八王子も皆、妙光菩薩のお弟子となり成仏したが、その最後に成仏した燃燈仏の八百の弟子中の一人に、とても物覚えが悪く、名利のみを求める求名(ぐみょう)という者がいた。しかし彼は長い間、仏を尊び、供養して功徳を積んだのである。弥勒よ、今述べた過去の妙光菩薩とは誰あろう、それは他でもない今の我、文殊師利であり、求名というのは汝弥勒のことである」と、過去世の因縁を物語りました。そして、「放光瑞」は、釈尊が法華経を説法される前触れであると答えたのであります。この問答は慈問智答といいます。このように、文殊師利菩薩が釈尊の「放光瑞」の因縁を物語ったのですが、妙光菩薩とは今の文殊師利菩薩であるというのは、「光明」と「智恵」と「法華経」との深い関係を示しています。「三人寄れば文殊の知恵」というのは、この法華経「序品」の説話によったものと思います。

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