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連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第2章 第4話

掲載日 : 2010/5/6

妙法蓮華経方便品第二 (二)

十如是について

 法華経に、万物構造の原理として「十如是」が説かれています。「方便品」に、「仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃(いま)し能く諸法の実相を究尽したまえり。」とあります。釈尊が甚深難解の法として説かれた「諸法実相」、すなわち宇宙間の全ての自然現象たる万物は、どのようにして創造され、絶えず変化しつつ向上し、また向下するか、その妙理法則を説明されたのが、「十如是」であります。「所謂諸法・如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」とあるように、如是が十ありますから「十如是」と呼んでいます。「如是」とは、ありのままということで、法則にかなうという意味です。

 最初の「如是相」とは、現象界に存在するものは、どんなものでも長短方円・美醜の相(すがた)があって、凡夫の目にも見えますが、本仏釈尊は凡夫の目に見えない極小の世界や極大の世界、霊界の相(すがた)までも見透すことを言い、日蓮聖人は応身仏に配当されています。「如是性」とは心で、万物それ自体が具えている性質、持ち前の智恵を言い、報身仏に配されています。「如是体」とは、前の相と性を兼ね具えたもので、法身仏に配釈されています。「如是力」とは潜在的な能力で、その能力を発揮する動作を「如是作」と言います。そして、善悪の動作が直接原因となることを「如是因」と言います。「如是縁」とは善悪の動作が縁となることで、良縁によって幸せな人生を送る人もあれば、悪縁によって一生不幸に終る人もいます。世の中は全て「縁」が大切です。「如是果」とは、信仰心の有無により、自分の行って来た動作が善悪の結果を生むことで、「如是報」とは、生前における信仰心の有無、善根功徳の有無による善悪の結果が、その報いとなって現れてくることです。現世には、温厚篤実で信心深い人が不幸になり、強欲非道の人が栄えている場合もありますが、それは過去世の「報」によるのであります。

  最後の「如是本末究竟等」とは、相・性・体の三如是が根本となって、末の力・作・因・縁・果・報を生むということで、この因果の法則は万人等しく逃れることができない、ということであります。日蓮聖人は『十如是事』(定2030縮202類658)に、

「我身が三身即一の本覚の如来にてありける事を、今経に説て云く、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文。初に如是相とは、我身の色形に顕れたる相を云也。是を応身如来とも、又は解脱とも又は仮諦とも云う也。次に如是性とは我心性を云う也。是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云う也。三に如是体とは、我此の身体也。是を法身如来とも、又は中道とも法性とも寂滅とも云也。されば、此三如是を三身如来とは云也。……此三如是を本として、これよりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成たる也。」 とご指南されています。

 なお、「十如是」を三回読みますが、(1)如是相・如是性・如是体と読むのは仮諦の義、(2)是相如・是性如・是体如と読むのは、空諦の義、(3)相如是・性如是・体如是と読むのは中諦の義で、法華経の三諦不思議の妙理を顕しています。しかし、真読の場合は三回共(1)の読み方であります。

十界互具の妙法

 次に「十界互具」についてご説明しましょう。
「十界」とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界です。法華経以前の方便の諸経にも、「十界」を説いておりますが、「十界互具」を説かれているのは法華経のみであります。

 この世に存在する森羅万象を大別すると、「十界」となりますが、全て因果の法則によって、生かされて生きている不思議な存在ですから、「十法界」と言い、略して「十界」と呼んでいます。この十界の一界ごとに、他の九界を具えているから「百界」となります。そしてその百界の一つ一つに、「十如是」を具えていますので、「千如是」となります。更に千如是の一つ一つに、五蘊世間・衆生世間・国土世間という三種の世間を具えていますから、「三千世間」となります。世間とは世界という意味です。この三千世間が、本仏釈尊の「毎自作是念」の大慈悲の一念に包まれていますので、「一念三千」と呼んでいます。法華経には「十界互具」が説明されていますから、「妙法」と申します。妙法の経力によって、一切衆生が成仏できるという原理と可能性があることを、理論的・哲学的に述べたものを「理の一念三千」と呼び、私達末法の一切衆生が、理論だけでなく、成仏が事実となって顕れることを、「事の一念三千」のお題目と申します。

 日蓮聖人が、五十二歳の文永十年(一二七三)四月、佐渡国一ノ谷(さわ)入道の邸でご執筆になり、「日蓮が当身の大事」と申された『観心本尊抄』には、十界互具・百界千如・一念三千について、詳しくご説明になっています。これは十界互具論が根本となっていますので、人間の心に具わっている十界について簡単に説明致します。

 私達の日常生活において、腹が立つ瞋(いかり)の心は地獄、貪欲(むさぼり)の心は餓鬼、愚痴(おろか)は畜生の心です。この貪・瞋・痴の三つは、健康上最も有害ですから「三毒の煩悩」と呼んでいます。人と人、国と国との争いは修羅の心から起こるもので、人間は本来平和な生活を求めているはずです。何ごとにも法悦感謝するのは天上の心であり、仏のみ教えを少しでも聞こうという気がおきたら、それが声聞の心です。朝に開き夕べに萎む花や落葉を見て、世の中の無常なることを覚り、十二因縁の法に随(よ)り、自分だけは心の安らぎを得たい、と願うのが縁覚の心です。この声聞と縁覚は、自分だけのことしか考えない人々で、法華経以前の諸経では、「破石焦種」と言って、たとえ破れた石が元のごとくなり、?った種から芽が出るようなことがあっても、永久に成仏できないと説かれています。仏のみ教えによって自他の幸せを希い、善根功徳を積み累ねる大乗的精神こそが、菩薩の心です。どんな悪人でも、自分の妻子の幸せを希う心を持っているのは、菩薩心の一部であります。わけても、全ての人々が成仏できる道を説いた法華経を信ずる人は、仏ごころ(仏性)を具えている証拠である、と日蓮聖人はご指南になっています。

 どんな鳥獣虫魚でも、調教次第で人間の意図のごとく動作をしますが、これらは全て人間の心を具えている証拠で、法華経の説く十界互具・百界千如・一念三千の教理を実証するものであります。植物でも、愛情をもって育てると美しい花を咲かせ、立派な果実をつけます。動物は精神作用を持つ有情(うじょう)であり、植物は心の作用のない非情です。日蓮聖人は『観心本尊抄』(定七〇三縮九二九類八四)に、
「一念三千は、情・非情に互る。」
と申されていますが、法華経の十界(法)互具(妙)、一念三千の妙法の生命哲学は、教理としては世界最高の思想と言われています。古歌に、

   傀儡師(かいらいし) 胸にかけたる人形箱 仏出そうと 鬼を出そうと

というのがありますが、この歌は法華経の十界互具の妙法を詠んだ、妙歌であります。

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