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連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第2章 第5話

掲載日 : 2010/6/18

妙法蓮華経方便品第二 (三)

一念三千の仏種

日蓮聖人は、『観心本尊抄』〔(定)七一一(縮)九三八(類)九三〕に、

「一念三千の仏種に非ざれば、有情の成仏、木画二像の本尊は有名無実なり。」

とご指南されていますが、この一念三千の仏種論は、前述の十界互具論を基礎として、体系的に論述された妙法の哲学的解釈であり、久遠本仏釈尊のお覚りの内容であります。本隆寺のご開山日真大和尚は、「一念三千の仏種は、本果実証の南無妙法蓮華経である。」と申されています。この「本果実証」という妙法の「仏種」がなければ、たとえ一切衆生が仏性を具えていても、仏には成れません。「仏性」は田畑の土であり、「仏種」は仏に成るべき種ですから、仏果を得るためには「仏種」でなければならないことは、当然の理であります。

 ところで、人間は感情の動物と言われていますが、喜怒哀楽の精神作用を持つものを全て「有情(うじょう)」と言い、草木のごとく切っても焼いても、痛いとも苦しいとも言わないものを「非情(ひじょう)」と呼んでいます。木像や画像、金仏・石仏を造立しても、もとは非情ですから、仏教の魂魄として説かれた法華経によって開眼供養しなければ、魂の入っていない単なる偶像に過ぎません。お仏壇を新調し、お位牌を作り、新しく墓を建てても、仏のみこころである法華経によって開眼しなければ、打てば響く感応のあるものとはなりません。

 全仏教の魂魄たる法華経の「一念三千の仏種」は、「方便品」と「如来寿量品」に説き示されていますが、「方便品」では、「十界互具・十如是・三種世間」という妙義により、一念三千を理論的に説かれていますから「理の一念三千」と言います。一方「寿量品」では、釈尊ご自身が、実修実証という尊い体験の事実を踏まえて説き示された一念三千の仏種ですから、「事の一念三千」と申すのであります。

一大事因縁の目的を明かす

 「方便品」に於て、諸法の実相は「妙法」であることを説き明かされた釈尊は更に、「諸仏世尊は唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したのである。その一大事因縁の目的とは、衆生に仏知見を開かしめ、衆生に仏知見を示し、衆生に仏知見を悟らしめ、衆生に仏知見の道に入らしめることである。」と申されました。「仏知見」とは、諸法の実相を見極め、中道一実の妙理妙法を体得できる能力を言います。「開仏知見」とは、例えばこの宝蔵には如意宝珠があるから見せてやろうと、蔵の扉を開くようなもので、「示仏知見」とは、如意宝珠はこれですと、指し示すことであります。また、「悟仏知見」とは、この如意宝珠は世の中で一番尊い宝で、妙法と名づけるのであると悟らしめることです。最後の「入仏知見」とは、この世で一番尊い教えの宝であり「一仏乗」とも言う妙法、すなわち法華経の信仰に導き入れることであります。これを「四仏知見」と呼び、仏が世に出現した唯一の目的であると説かれたのです。

 ところで、全てお経の文章には、「長行(ぢょうごう)」と「偈頌(げじゅ)」の二つの区分があります。長行は散文(さんぶん)で、偈頌は韻文(いんぶん)であります。一旦長行で説いたことを、読み易く覚え易いように、四字または五字の韻文で更に重ねて説くので、この偈頌を「重頌(じゅうじゅ)」と呼んでいます。有名な「方便品」の「十方仏土中・唯有一乗法・無二亦無三」、「仏種従縁起・是故説一乗」、「正直捨方便・但説無上道」、「化一切衆生・皆令入仏道」の他、名言には枚挙にいとまがありません。

 日蓮聖人は『開目鈔』〔(定)五四二(縮)七五四(類)二八〕に、 
「此に、予愚見をも(以)て、前四十余年と後八年との相違をかんがへ見るに、其相違多しといえども、先つ世間の学者もゆるし、我が身にもさもやとうちをぼうる事は、二乗作仏・久遠実成なるべし。……唯一大事因縁を以ての故に世に出現すとなのらせ給て、未顕真実・世尊法久後・要当説真実・正直捨方便等云云。」

と、法華経以前の方便の諸経で成仏できなかった破石焦種の二乗を、法華経の経力で成仏させることが一大事因縁の目的であると述べられております。

人生に於ける一大事とは

 一般に、人生に於て大事と言われることは沢山あります。子を教育し、財産をつくり、立派な家を建て、仕事にも社会的にも成功すること、これも勿論大事であります。しかし、永劫に大宇宙生命を貫く、諸法実相の妙法をお覚りになった仏眼からご覧になると、私達人間凡夫の考えている大事も、多くは浮草のごとく夢幻のような大事で、どれほどあくせく働いて得た財産も、未来へ持って行く訳には参りません。数多い大事の中で、本当の大事は唯一つしかない故に、釈尊は「唯一大事」と申されたのであります。

 「今まで四十余年の長い間、一仏乗の法華経を説かなかったのは、説くべき時が至らなかったからである。十方仏土の中に於て、全人類を救済し成仏せしめ得る経力のある教えは、唯法華経の法のみである。今日まで無数の方便、種々の因縁と譬喩を以って説いてきた三乗方便の教えでは、恰も高山の頂きに蓮華の生えないごとく、焦種に芽が出ないごとく、永久に成仏できない。速やかに一仏乗の法華経信仰に乗り換えよ。」この頭の切り換えが、人生に於ける「一大事」で、まさしく「正直捨方便・但説無上道・化一切衆生・皆令入仏道」なのであります。

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