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連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第2章 第17話

掲載日 : 2011/7/23

妙法蓮華経法師品第十 (下)

衣座室の三軌

  釈尊は、法華経を弘通するための具体的方軌として、「如来の室に入り、如来の衣を着け、如来の座に坐し、衆に向かって説け。」と教えられています。これを、衣・座・室の三軌、弘経の三軌とも申します。軌とは、軌道とか法則、法規という意味で、言うなれば法華経を弘める上での、三つの心構えであります。「法師品」に、「若し善男子・善女人あって、如来の滅後に四衆(出家及び在家の男女)の為に、是の法華経を説かんと欲せば、いかんしてか説くべき。是の善男子・善女人は、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に座して四衆の為に広くこの経を説くべし。如来の室とは大慈悲心、如来の衣とは柔和忍辱の心、如来の座とは一切法空、すなわち一切のものは、大空が無礙なるごとく、無我超脱の座に坐して、慈悲の心・柔和忍辱の心・何ものにもとらわれない無我の心、この三つの心構えで、衆生を救済すべく法華経を説くべし(取意)」と説かれています。
日蓮聖人は、『衣座室御書』に、「法師品」及び『法華玄義』を引証して、法華経を弘通する人の功徳の大なることを述べられていますが、祖師の行動そのものが、三軌に住されたものであったことは申すまでもありません。

 

心に宝塔を建立しよう

 釈尊は、法華経を受持・読・誦・解説・書写する功徳の大なることを述べて、法華経の経巻所在の所には、七宝荘厳の塔を建てて供養するように示しておられます。その理由として、法華経は釈尊ご自身の生命であり、如来全身の舎利であるから、法華経を受持し供養するものは、火葬した碎身の舎利を奉安しなくても、法華経を受持することで、生身の釈尊を奉安したと同じ功徳が得られると申されています。
七宝荘厳の塔を建てると申しますのは、必ずしも形のある塔を建てることだけに限りません。無論、有形の塔を建立できれば立派でありますが、幸いにして私達は受け難き人界に生を受け、値い難き法華経に会い奉ることを得ているのです。如来全身の舎利である法華経を受持し、読誦し、供養して妙法の大功徳を頂かねばなりません。そのためには、全ての人々が自己の心身を清潔にして、意は質直柔軟(しちじきにゅうなん)に唯ひたすらに余念なく、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱題行に徹すれば、七宝で荘厳した大宝塔を建立したと同じ功徳が頂けるのであります。
前宗務総長の藤井文英上人が、総長就任のご挨拶の中で、「心に宝塔の建立を」と申されておりました。全人類の一人一人が、自分の心の中にお題目の宝塔を建立すれば、小にしては家庭から近隣近在、大にしては国家、国際社会に至るまで、法華経に予言されているごとくこの世が明るくなって、「我此土安穏・天人常充満」の仏国土となるのであります。
要は、法華経の活現する所は常寂光土であり、法華経の霊場、釈尊の霊場にして五種法師の常在する聖地である、と申せましょう。

 

法師品の御製と御歌

 百四代後柏原天皇は法華経のご信仰篤く、本隆寺開山常不軽院日真上人より法華経のお話を聴聞され、「法師品」の「寂寞(じゃくまく)として人の声無らんに此の経典を読誦せば、我れ爾(そ)の時に為に清浄光明の身を現ぜん。」の経意を、次のごとく御製されております。

ともし火の ひかりもうれし静かにて 音するこゑを かはす隣は
ともし火の ひかりもうれししづかなる 我声しれる 隣もそあり
ひかりなき 谷の戸ながらしづかなる 心よりみる 月を待ちえて

 百十二代霊元天皇も法華経のご信仰篤く、「高原を穿(うが)ち鑿(ほる)に……漸く湿える土泥を見ては、決定して水近きぬと知るが如し。」の経意を、

わけ入れば しめる山路に谷水の やや近くなる 程も知りけり

と御製されています。
また、六十二代村上天皇の第十皇女、選子内親王も法華経のご信仰深く、「此の経典を読誦せば、我れ爾(そ)の時に為に清浄光明の身を現ぜん。」の経意を、

空すみて 心のどけき小夜中に ありあけの月の ひかりをぞ待つ

とお詠みになっています。

法華経は、釈尊出世の本懐であり、全人類が成仏できる道を教えた経典です。死んで柔かく成仏できるのも妙法の経力です。「今此の三界は皆是れ我が有(う)なり(主の徳)。其の中の衆生は悉く是れ我が子なり(親の徳)。而も今此の処は諸の患難(げんなん)多し。唯我れ一人のみ能く救護することを為す(師の徳)。(譬喩品)」と明言されているのであります。釈尊には、主の徳・師の徳・親の徳という「三徳」が具備していますが、阿弥陀仏とか大日如来には、この三徳が具わっていません。従って、私達娑婆の衆生とは、全く縁の無い仏さまです。これを天台・妙楽両大師は「異縁仏」と申されています。異縁仏とは、無縁仏と同義異語であります。西方阿弥陀仏について、日蓮聖人は『法華取要鈔』〔(定)八一二(縮)一〇三八(類)二三三〕に、

「天台云く、西方は仏別に縁異なり。故に子父の義成ぜず等云云。妙楽云く、弥陀・釈迦二仏既に殊る。況んや宿昔の縁別にして化導同じからざるをや。結縁は生の如く・成熟(じょうじゅく)は養の如し。生養縁異れば父子成ぜず等云云。」

 と申されています。天台・妙楽両大師は、中国仏教史上、並ぶもののない大学者です。この両碩学が、阿弥陀仏は娑婆の衆生とは無縁仏である、と申されているのです。まさに、千金の重みを持つ金言であります。
私達の住んでいる地球娑婆世界の大恩教主は、釈尊唯お一人です。「方便品」に、「十方仏土の中には唯だ一乗の法のみ有り、二も無く亦た三も無し。仏の方便の説をば除く。」と申されて、正直に方便を捨てるようご指南されています。
舎利弗尊者や目連尊者、阿難尊者達は、仏の仰せの通り素直に、正直に四十余年の方便の信仰を捨て、法華経に入信して「仏記」が授けられたのです。真実のお経と方便のお経、成仏できるお経とできないお経、このけじめを明確にして信心しなければ、仏国へ行くつもりで乗った船が、三悪道へ行く結果になります。釈尊は法華経を説き終って、仏の遺言(ゆいごん)である『涅槃経』に、「法に依って人に依るな。」と戒められています。法とは、法華経の教えであります。人とは、仏教徒の顔をして釈尊のみ教えに依らない人師のことです。教主釈尊のみ教えを、身をもって実践されたのは、日蓮聖人お一人あるのみであります。このことを日蓮聖人は、

芦の葉の 形ちは船に似たれども 浪速の人を えこそ渡さね

とお詠みになっています。

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