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連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第2章 第35話

掲載日 : 2016/07/01

妙法蓮華経嘱累品第二十二 (上)

摩頂付嘱について

 釈尊は「神力品」の付嘱の後、迹化の菩薩に対して、仏滅後に法華経を弘通するようにと、三度諸の菩薩の頂きを摩でて付嘱されました。これを「摩頂付嘱」あるいは「三摩の付嘱」と呼びます。「嘱累品」の「嘱累」とは、前品「神力品」の付嘱の後、更に累ねて付嘱することの意です。当品の付嘱について本隆寺開山日真大和尚は、「人」は総ての菩薩に対する故「総付嘱」であるが、「法」は大小権実の法を各菩薩に別々に付嘱されたのであるから「別付嘱」であると、お経の内容を分析して説明されています。

なお羅什訳の『妙法蓮華経』では、「嘱累品」は「神力品」の次になっています。これは、お経文の意連によるもので、異訳の『正法華経』や『添品法華経』では、「普賢品」に次いで経末に置かれているため経意を失っています。


迹化の菩薩と本化の菩薩

 「神力品」では、本化上行菩薩に対して「如来寿量品」の一切の功徳と利益を、四句の要法に結して本門寿量の題目として弘通するよう結要付嘱されましたが、「嘱累品」では迹化の菩薩に対して、釈尊が五〇年かかって説かれた一切経を、法華経を中心として纏める使命を付嘱されたのであります。故に、その付嘱を受けた迹化の代表たる薬王菩薩は、中国陳隋の世に誕生して「智顗(ちぎ)」と名乗り、一切経すなわち全仏教の経典を十五回繰り返して精読の上、「五時八教の教判」を確立されました。仏教史上未だ誰もなし得なかった、法華経を中心とする一切経の体系的研究を成し遂げられた智顗は、隋の煬帝(ようだい)より「天台智者大師」の諡号を贈られました。この、天台智者大師の再身が、日本の「伝教大師」最澄とされています。

 日蓮聖人が『立正観鈔』[(定)八四七(縮)一〇六八(類)一五九八]に、
 「天台大師は、昔霊山に在っては薬王と名け、今漢土に在っては天台と名け、日本国の中にては傳教と名く。三世の弘通、俱に妙法と名く。(原漢文)
と申されているごとく、天台・伝教両大師は共に法華経を中心として仏教を弘通されたのです。お二人とも、像法時代に迹化薬王菩薩の再誕として生れた高僧であり、方便の権経より真実の法華経が尊く有難いことを世に光顕されたのですが、残念ながら一番肝心な法華経の本尊が不明確で、 “朝題目の夕念仏” という “権実雑乱(ごんじつぞうらん)” に終わっています。

 「権」とは、法華経を説くための仮の方便のお経で、いくら信仰しても成仏できないと説かれています。「実」とは、釈尊出世の本懐として説かれた真実のお経で、法華経のことです。法華経には、法華信者は百人が百人、万人が万人、一人も残さず成仏できると説かれています。 “権実雑乱” とは、飯の中に籾や砂が混入している状態を指します。故に、同じ菩薩でも迹化の菩薩と本化の菩薩とでは、その学識と人格に於て雲泥の相違があります。

学識で喩えれば、本化の菩薩は大学長のごとく、迹化の菩薩は小学生のようなものであります。日蓮聖人は本化上行菩薩のご再誕ですから、天台・伝教の権実雑乱を廃して本門寿量の本尊を明確に示し、 “朝題目の夕法華” として「本門寿量品」を中心に捉え、全仏教の統一的見解として発表されたのが、有名な『開目鈔』であり『本尊抄』であります。
これは、本化上行菩薩の再誕である日蓮聖人のみに付嘱された権能であります。

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