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連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第2章 第44話

掲載日 : 2022/3/3

妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八

四法成就によって法華経を得る


 当品は、法華経のご説法が将に終らんとする時に普賢菩薩が東方より霊鷲山に到り、再び法華経を説いて頂きたいということをお願いし、釈尊が法華経の要点を、再び纏めてお 説きになったものです。ですから当品を「再演法華」とも申しまして、法華経全体の総括であります。「勧発(かんぼつ)」というのは、普賢菩薩が発起人となって、再び法華経のご説法を釈尊にお願いすると同時に、人々に法華経の信仰を勧めることを意味しており、そのため「普賢菩薩勧発品」と申します。

 ところで、普賢菩薩は「理」を象徴する菩薩で、文殊菩薩は「智」を象徴し、弥勒菩薩は「慈悲」を象徴する菩薩であります。普賢菩薩が六牙の白象に乗っているのは、純浄にして内には利他の行力剛健であり、外には温柔慈悲の相を示すものです。

 「序品」に於て説明したごとく、文殊師利菩薩が法華経説法の端緒を開き、普賢菩薩が法華経を結ぶのは、文殊の「智」と普賢の「理」とを相対して、法華経の始まりと終りを明らかにするものであります。文殊が獅子に乗り、普賢は六牙の白象に乗るのは、共に百獣の王として獅子は剛と智を表し、象は柔と理を表しています。

 当品の目的は、普賢菩薩が末世に法華経の行者を擁護することを誓うことです。自在神 通力をもった普賢菩薩は、遙か東方の宝威徳上王仏の国からこの娑婆世界の霊鷲山に到り、 釈尊に法華経の再説を願い、更に釈尊入滅後に法華経を得る方法を尋ねます。それに対し て釈尊は「四法を成就すれば、如来の滅後に於ても法華経を得ることができる。」と申されました。

 「四法」とは、①諸仏に護念される。②話の徳本を植える。③正定聚に入る。④一切衆生を救う心を発す。――の四つを言います。順にご説明しましょう。
①諸仏に護念されるとは、「毎自作是念」という本仏の慈願で、恰も植物が日光に照らされて芽を吹き花実を付けるように、久遠実成の本仏釈尊が説かれる妙法の光に照らされて、一切衆生が無上道の法華経によって仏身を成就することを願えば、必ず本仏釈尊によって護られるという意味です。
②諸の徳本を植えるとは、多くの善根功徳を植えることで、法華経の信行です。
③正定聚に入るとは、世の中を善くするために人間として正しい生き方をすることで、反対に「邪定聚」とは、人として有るまじき行いをする人々です。この二つの中間にあるのが「不定聚」で、都合に依ってどちらへも傾きます。
④一切衆生を救う心を発(おこ)すとは、利他の心・慈悲の心、すなわち仏心を発すことです。

 以上の「四法」が具足している人は、末世に於ても必ず法華経に巡り会うことができると申されたのです。

普賢陀羅尼の功徳を説く

 そこで普賢菩薩は、仏前に於て次のように誓願します。「私は仏滅後の末世濁悪の時に、 法華経を受持する者があればこれを守護して安穏ならしめ、行住座臥に法華経を読誦思惟(しゆい)する者があれば、六牙の白象に乗ってその前に現われて説法し喜悦せしめ、経意に通ぜしめて利益を授け、陀羅尼を得させるべくお誓いします。」そして、その陀羅尼を述べました。
1.アタンダイ 無我の意で、自己を空しくして世の中のために尽す心構えが、無我です。
2.タンダハダイ 除我の意で、無我から一歩進んで、自分の利害損得を除き天地の大道を中心に物を考える意です。
3.タンダハテ 方便の意で、方便とは諸法実相の理をよく知り尽した、仏智による随宜方便の説です。
4.タンダクシャレ 仁和の意で、人と人とが和合するためには「仁」の心が必要です。つまり、己れを空しくして人のために尽す心構えです。
5.タンダシュダレ 甚だ柔軟の意で、自我偈に「質直意柔軟」とあるごとく、心の柔軟のことです。
6.シュダレ 甚だ柔弱の意で、「柔弱」とは自我を主張せず、仏の教えに適う頭の柔らかさのことです。
7.シュダラハチ 苟見(こうけん)の意、すなわち苟も見るということで、法華経を拝読すると有難さが見えて来ます。
8.ボダハセンネ 諸仏廻(しょぶつえ)の意で、自分の積んだ善根功徳を人に廻向することです。
9.サルバダラニ・アバタニ 諸総持廻(しょそうじえ)の意で、諸の止悪作善の功徳は他人を感化し、その影響は廻りの人々に及ぶのであります。
10.サルババシャ・アバタニ 衆に行じて説くの意で、「衆」とは世間の人々のことであり、この衆に対して、自分は法華経を信仰してこういうおかげを頂いたと、実行による功徳を他人に説くことです。
11.シュアバタニ 皆廻転(みなえてん)すの意で、「廻転」とは廻り廻って感化影響を及ぼすということです。
12.ソギャハビシャニ 悉く集会(しゅうえ)すの意で、人類悉く正法の法華経に帰依し、やがて一天四海・皆帰妙法が現実となることです。
13.ソウギャネ・キャダニ 衆趣(しゅうしゅ)を除くの意であります。「趣」とは趣(おもむ)くことで、地獄・ 餓鬼・畜生・修羅などを四悪趣と言いますが、貪欲(とんよく)(=むさぼり)・紳瞋恚(しんに)(=いかり)・ 愚痴(ぐち)(=おろか)の心を持っていると、これらの悪道に趣きますが、法華経を信ずることによって、悪趣から除かれるのです。法華経には「離諸悪趣(厳王品)」とあります。
14.アソウギ 無数の意で、法華経の功徳利益は量り知ることができません。
15.ソウギァハギャダイ 諸句を計すの意で、「諸句」とは釈尊の一言一句、すなわちお経文の一言一句の重みを計ることです。「四十余年・未顕真実(『無量義経』説法品)」、「正直捨方便・但説無上道(方便品)」、「十方仏土中・唯有一乗法・無二亦無三(方便品)」等、数え切れない仏の金言の重みを計ることです。
16.テレアダソウギァトリャ・アラテ・ハラテ 三世の数等しの意で、この場合の「数」とは道の意で、無上道の法華経の功徳は過去・現在・未来に亘って不変ということです。
17.サルバソウギャ・サンマジ・キャランダイ 有為(うい)を越えるの意で、「有為」とは「無為」に対することばで、いろは歌に「有為の奥山今日越えて」とある「有為」です。有為を越えるとは、自己中心の考え方を乗り越えて利他の境地に住することです。
18.サルバダルマ・シュハリセッテ 諸法を学すの意で、世の中のあらゆる仏法を学んで、世間の人々のために法華経は唯一成仏の法であることを説くことです。
19.サルバサッタ・ロダキョウシャリャ・アトギャダイ 衆の音(おん)を覚る意で、観世音の音と同じく、人々の欲求の音声を覚って応病与薬するごとく、法華経の功徳を与えることです。
20.シンナビキリタイテ 獅子娯楽(ししごらく)の意で、「獅子」は百獣の王であることから、仏を「師子王(安楽行品)」に喩え、仏の座を「師子座(宝塔品)」、仏の説法を「師子吼(宝塔品・勧持品・分別功徳品)」と申します。「娯楽」とは、法華経を信ずることができた法悦の意味であります。

 以上が普賢菩薩の二十の陀羅尼です。陀羅尼については「陀羅尼品」で詳しくご説明しましたが、法華経には旋(せん)陀羅尼・百千万億(まんのく)旋陀羅尼・法音方便陀羅尼の三種が説かれています。治病・滅罪・護法の功徳力があるとされ、日蓮聖人も『御義口伝』〔(定)二七二五〕に、
「陀羅尼とは南無妙法蓮華経の用なり。此の五字の中には、妙の一字より陀羅尼を説き出す也。」
とご指南されています。

 仏滅後に法華経を受持・読誦・正憶念し、修習し書写すれば、生身の釈迦牟尼仏にお目にかかり、釈迦牟尼仏の口から法華経を聴聞し、釈迦牟尼仏を供養し、そして釈迦牟尼仏がみ(・)手(・)をもって頭(こうべ)を摩(な)で、釈迦牟尼仏が衣で覆って下さるのであります。

 私達は、幸いにして人間に生れて来たのですから、釈尊の金言を信じ、邪教や方便の説に迷わされず、釈尊出世の本懐、大乗仏教の真髄として説かれた法華経の信仰によって、現世に心の安らぎ、未来は成仏という永遠の福報を得たいものであります。

 日蓮聖人は『南条殿御返事』〔(定)一一三七(縮)一三七四(類)九七二〕に、
法華経の第八の巻に云く、所願虚しからず、現世に於て其の福報を得ん。又云く、当に現世に於て、現の果報を得べし等云云。
とご指南されています。

 百十二代霊元天皇は法華経のご信仰篤い方で、殊に特筆すべきは、御父後水尾天皇の第五十回忌に「如来寿量品」を拝されて、
   たらちねの 見しよも今は五十(いそぢ)ふる 秋にむかしの 月を恋ひつつ
と御製、「普賢菩薩勧発品」を拝されて、
   鷲の山 ちとせの松の花のかげ 立つことかたき 今日のかへるさ
と御製された他、法華経二十八品に亘り一品に三首ずつ、合せて八十四首の『法華経二十八品和歌』を遺されていることであります。

 また菅原道真は「勧発品」について、
   心だに 誠の道に叶ひなば 祈らずとても 神や守らん
と、ご指南されています。

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