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『立教開宗と日像菩薩』

記事:布教師 吉田 公明

御当山報恩寺(福井市安保)の開山、沿革を拝見しますと
開山 龍華樹院日像(菩薩)
日像(菩薩)永仁二年(一二九四)一月、北陸弘通の際、阿呆、鍛冶屋新平邸に於て説法し、当寺法音寺に止宿。
住職頼尋と対論すること数日に及ぶ。頼尋ついに起伏し、寺檀上げて改宗し、寺名を報恩寺と改む。
とあり、本日は御当山に関係のある日像菩薩(一二六八~一三四二)と日蓮聖人(一二二二~一二八二)の 「立教開宗」についてお話いたします。

日蓮聖人の「立教開宗」については、一般的に次の御遺文
『清澄寺大衆中』   
建長五年四月二十八日、安房の国、東条の郷、清澄寺、道善房持佛堂の南面にして、 浄観房と申す者、並びに少少の大衆にこれを申しはじめ。

(『昭定』一三七一頁)

 『聖人御難事』   
去建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡之内東条の郷今は郡也。天照大神 の御くりや、右大将家の立て始め給ひし日本第二の御くりや、今は日本第一なり。此郡の内清澄寺と申す寺の諸佛坊の持佛堂の南面にして午の時に此法門申しはじめ。

(『昭定』一八七五頁)

等々、建長五年(一二五三)四月二十八日が人口の膾炙されているものであり、この年月日によって、平成一五年(二〇〇三)に総本山本隆寺、並びに門下寺院が「立教開宗七五〇年慶讃法要」をされたことは記憶に新しいことでしょう。

 この年月日は、日蓮聖人の私的な開宗宣言であり、私はそれで良いと思いますが、公的にはいつであるかと言へば、京都国立博物館に於て、本年三月一日より~四月二日の間、修理完成記念「妙顕寺の文書」展が開催されその中の「後醍醐天皇綸旨」
妙顕寺は勅願寺と為して  
殊に一乗円頓の宗旨を弘め  
宜しく四海泰平の精祈を凝すべし  
者ば 天気此の如し 之れ悉にするに状を以てす   
建武元年四月一四日 民部権大輔  日像上人御房  
の「解説文」に
後醍醐天皇(一二八八~一三三九)の意を奉じて発給された綸旨で初世日像にあてたものであり、妙顕寺を「勅願寺(天皇の玉体安穏、鎮護国家を祈願する寺)」となし、「一乗円頓の宗旨(法華宗)」を公認、つまり弘通が許されたことを記す。永仁二年(一二九四)に日像が上洛してから四十年ちかく歳月を費やした結果、朝廷という一代権門から法華宗(日蓮宗)が公認されたことを示すものであり、この文書のもつ意味は非常に大きい。

と説明され、日像菩薩の三黜三赦(三度の流罪と三度の赦免)等の御苦労により、建武元年(一三三四)四月一四日が公認された年月日である。

公認云々に関しては、日蓮聖人の時代より少し前の法然上人(一一三三~一二一二)の「専修念佛停止を請うた興福寺奏状」[貞慶上人(一一五五~一二一三)起筆]の九箇条の第一条に   
第一に新宗を立つる失   
夫れ佛法東漸の後、我朝に八宗有り・・   
(略)・・縦ひ功有り徳有りと雖も、須らく公家に奏して以て勅許を待つべし。   
私に一宗と号すること、甚だ以て不当なり。  
と「私に一宗と号することなく、勅許(天皇の許可)を待つべし」とある。

この奏状の勅許云々については、次の
(1)御遺文に南都(興福寺)奏状(「第一に新宗を立つる失」はなし)が記されてある。
『立正安国論』  
延暦・興福の両寺より、度度奏聞を経て、  勅宣・御教書を(『昭定』二一九頁)
『念佛者を追放せしむる宣旨・御教書五編を集め列する勘文状』  南都の奏状に云く(『昭定』二二五九頁)
(2)日像菩薩に帝都弘通の委嘱。  
聖人より経一丸(後の日像菩薩)に京都の開経を委嘱、後醍醐天皇より綸旨(勅許)賜った。
より、日蓮聖人は知っておられ、特に(2)の日像菩薩に帝都弘通を委嘱されたのは、清澄における私的な開教宣言でなく、天皇より公認(勅許)を得るためであったのであろう。

因みに法華宗真門流は、京都妙顕寺(初祖日像菩薩)六祖日具上人の時に御開山日真大和尚が分派した日蓮聖人、日朗菩薩、日善菩薩の教えを正しく受け継いでいる門流である。

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