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連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第2章 第31話

掲載日 : 2012/10/5

妙法蓮華経法師功徳品第十九

法華経を行ずる人は五種法師なり

  当品を「法師功徳品」と申しますのは、「寿量品」を聴聞して「五種法師」の修行に励む人の功徳を説かれているからです。「如来寿量品」に於て、仏教で一番大事な「開迹顕本」によって仏寿の久遠が説かれ、人々はさまざまな功徳を受けることが明かされました。その功徳を分別して説かれたのが「分別功徳品」で、更に、一念信解してお導きする功徳の大なることを説かれたのが「随喜功徳品」です。
当品には、「寿量品」の功徳を積極的に弘通宣伝する、法師の功徳の広大なることを述べられています。「法師」と申しますと、身に袈裟衣を着けたお坊さんだけのように思われますが、そうではありません。在家の人でも、法華経を受持・読・誦・解説・書写の五つの修行をする人は、全て「五種法師」であります。

六根清浄の功徳と果報

 「法師功徳品」の内容をかいつまんでご説明しますと、法華経を行ずる五種法師の修行によって、「六根」すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに、それぞれ「六根清浄」の功徳を得ることが説かれていますが、六根の内、眼・鼻・身の三つは各八百の功徳を得、耳・舌・意の三つは各千二百の功徳を得ることを明かされています。すなわち常精進の者は男女の如何に拘らず、法華経を受持・読・誦・解説・書写するならば、その人は八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の意の功徳を得ることができ、その功徳を以って六根を荘厳し清浄ならしめるであろう、と釈尊は申されました。
父母から頂いた肉眼も、法華経の功徳力によって八百の功徳を得て清浄の肉眼になれば、その「眼の功徳」で、天地宇宙間のことは、下は無間地獄から上は有頂天まで、また一切衆生の善悪の業の因縁や果報によって、次の世に生まれゆく姿までも見通すことができると申されています。

次に、法華経の功徳力によって千二百の「耳の功徳」、すなわち清浄の「耳の功徳」を得たならば、三千大千世界のあらゆる音や声を同時に聞くことができ、下は地獄界から上は有頂天に至る間の、地獄で苦しむものの声から餓鬼・畜生・修羅・人・天の声、更に声聞や縁覚の声・菩薩の声・仏の声に至るまで、悉く聞き分けることができるであろうと申されました。
そして八百の「鼻の功徳」を得たならば、栴檀・伽羅・沈香は勿論、あらゆる香木と草木の華や果実の香、また動物・昆虫・鉱物の香等を悉く嗅ぎ分けられるのみならず、一切衆生の香・男子の香・女子の香の他、人々の身に着けている衣服や荘身具に至るまで、全ての香を嗅ぎ分けることができる、超能力が得られるであろうと申されました。
次に、千二百の「舌の功徳」を得たならば、「その人は舌根清くして、終(つい)に悪味を受けじ。其の食噉(じきだん)する所有れば、悉く皆甘露と成らん。」と説かれて、どんなに苦く渋くまずいものでも、この人の舌の上に置くと、それらが皆甘露の上味と変ずるであろうと申されました。更に、弁舌自在にして雅亮なる音声を以って大衆の中で妙法を演説すると、聴聞する人々の心に滲みこんで、歓喜の心で供養を受けるであろうと申されています。 
また、この法華経を受持・読・誦・解説・書写する人は、八百の「身の功徳」を得て身体が浄玻璃(水晶・ガラス)のごとく清浄になり、天地法界の現象は皆その中に映現し、多くの人々がその人を見ることを希い喜び、声聞・縁覚・菩薩・仏のご説法の姿までも、恰も鏡に色像が写るごとく現れるであろうと申されました。
更に進んで、この法華経を如来の滅後に於て受持・読・誦・解説・書写するならば、その人は千二百の「意の功徳」を得ると説かれています。一を聞いて千万を知る清浄の「意の功徳」を得たならば、法華経の一偈一句のみならず、どんな俗世間のことを説いても、皆諸法の実相と違背しないであろうと申されました。例えば、政治・産業・経済・教育等どんな問題を論説しても、「皆順正法」すなわち諸法の実相を説いた正しい妙法の教えに合致して、世のため人のためになると申されています。父母から頂いた私達の”からだ”も、法華経の「五種修行」に精進すれば、「如来寿量品」の功徳によって、「六根清浄」の功徳と果報を得、肉体的にも精神的にも生れ変わる大功徳が頂けるのであります。
以上、ご説明申しましたごとく、当品では「五種法師」の功徳と共に、娑婆即寂光土・即身成仏の深義を抽象的・観念的でなく、具体的に説かれているところに特徴があり、有難く拝される次第であります。

唱題行と六根清浄の功徳

 私達が毎日唱えている「回向文」の、「若持法華経・其身甚清浄・荘厳六根・皆令清浄・不染世間法・如蓮華在水」とある一文は、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根、すなわち身心を清めて、本仏釈尊・日蓮聖人・ご開祖・諸天善神の感応擁護を請い奉る、有難いお経文であります。法華経が有難いことは他宗の人でもよく知っていますので、富士登山者を初め、山嶽信仰者達は皆「六根清浄、六根清浄」と、法華経の一文を唱えながら山へ登っております。
また、滝行や水行をする人が唱える「肝文」に、「若持法華経・其身甚清浄・不染世間法・如蓮華在水・得聞斯経・六根清浄・神通力故・増益寿命」とありますが、身心を清浄にして、釈尊の因行果徳の具足した本果実証のお題目を唱えますと、唱題の功徳力によって、「六根清浄」の功徳が求めざるに自然に授かるのであります。ですから、毎日欠かさず唱題行に励むことが一番大切なのであります。

亀山天皇の法華信仰と藤原俊成

 九十代亀山天皇は法華経のご信仰篤く、「法師功徳品」を讃えて、

仰ぎ見る 空なる星の数よりも ひまなきものは 光りなりけり

と御製されています。これは、「六根清浄」の功徳を得た人の身の輝きとともに、星の数よりも多い衆生の救済活動に、暫くも心身に暇なく、”妙法の光”を掲げて「五種法師」の行に励む、菩薩の姿を想い浮べての御製と拝されます。
また、平安朝末期の歌人として有名な藤原俊成(一一一四~一二〇四)は、歌学者定家の父で、清新温雅な「継玄体」の歌風を樹立した人であります。後白河天皇の勅を奉じて、『千載和歌集』二〇巻を撰し、歌集『長秋詠藻』の他、歌論の書『古来風体抄』を書いています。九十一歳で薨去しました。

二つなき 道にこころの澄みぬれば おもふ事みな 法とこそ聞け

 「法師功徳品」を詠んだこの歌は、妙法の信仰一筋に生きる五種法師の修行者の心が清く澄むゆえに、思うことは皆妙法の声となって衆生済度する、との歌意と拝されます。
日蓮聖人は『秀句十勝鈔』〔(定)二三七一 (縮)七一六 (類)一二八一〕に、

「謹んで、法華経法師功徳品を案ずるに云く、当に八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の意の功徳を得べし。是の功徳を以て、六根を荘厳して皆清浄ならしむ[已上経文]。当に知るべし。受持の法師[一]、読の法師[二]、誦の法師[三]、解説[四]、写の法師[五]、是の五種法師、各法華経に依って、各六千の功徳を獲る云云。」

とご指南されています。

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