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連載《法華経は佛教の生命「仏種」である。》
―IT時代の宗教―第2章 第40話

掲載日 : 2018/3/31

妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五

観世音菩薩の意味


 当品は、前品「妙音品」と姉妹品であり、共に色身三昧の活現によって衆生済度することを説いています。殊に当品には、観世音菩薩が三十三身を自由自在に変現することを具体的に説かれていますので、「観世音菩薩普門品」と申します。日本はもとより、中国・インドでも「観音経」と呼ばれているため、独立したお経のごとく思い、法華経二十八品の第二十五番目であることを知らない人もあるくらい、昔から観音信仰が盛んであります。

 前品では、妙音菩薩が三十四身を現じて衆生を済度されることを、理想的・抽象的に説かれておりますが、当品では、観世音菩薩が三十三身を現じて衆生済度されることを、実際的・具体的に述べられています。

 観世音菩薩 の「観」とは観察で、「世音」とは世間の人々の欲求の声であります。人々が求めている声を、正しく観察し聞きわけるのが「観世音」です。また「普門」とは、普く人々に幸福への門を開くという意味であります。すなわち、観世音菩薩の普門示現によるお導きによって、法華経を信ずる人々は全て平等に功徳が頂ける、との意味を込めて「観世音菩薩普門品」と名付けられたのであります。


南無観世音菩薩と一心称名により感応す


 まず初めに、無尽意菩薩が起立合掌して釈尊に尋ねます。「観世音菩薩は、どのような理由(わけ)で観世音と名付けられたのでしようか。」それに対して釈尊は、法華経を信じ観世音菩薩のみ名を称せば、どんな厄難に遭っても、直ちに観世音菩薩が種々に身を変現して衆生を済度されることを、次のように例を挙げてご説明になりました。

  「例えば、突然大火に取り囲まれても、南無観世音菩薩と申せば火に焼かれることはないだろう。大水に漂流しても南無観世音菩薩と称せば、浅いところを得て救われるであろう。もし、多くの衆生が金・銀・瑠璃(るり)・硨磲(しゃこ)・瑪瑙(めのう)・珊瑚(さんご)・琥珀(こはく)・真珠等の宝を求むるために大海に入った時、折悪しく黒雲が湧き大風が吹いて、船が人喰い人種の住む羅刹(らせつ)の国に漂着するようなことがあったとしても、その中の一人でも南無観世音菩薩と称えれば、漂着した人々は羅刹の厄難を免れることができるであろう。また、刀杖で殺害されるような時に臨んだとしても、観世音菩薩のみ名を称せば、殺害しようとして持っている刀杖が段々に折れ、難を免れるであろう。また、世界中にいる鬼がやって来て人を悩まそうとしても、その時観世音菩薩のみ名を称せば、この鬼達は憎しみの眼でその人を視ることができなくなる。まして害を加えるようなことはない。また人に罪があり、或いは無実の罪のために、手枷(かせ)・足枷・首枷等で身を縛られるようなことがあったとしても、その時観世音菩薩のみ名を称せば、その手枷・足枷・首枷等が切断されて、その難を免れることができるであろう。また、隊商が賊の沢山いる険路を宝を持って通る時、隊商を引率する者が皆と観世音菩薩のみ名を称えれば、怨賊の難から免れることができるであろう。もし衆生の中に、むさぼりの心・いかりの心・ぐちの心が起きても、観世音菩薩のみ名を称えることによって、その心を離れることができるであろう。また、女人が男の子を欲しいと思い、観世音菩薩を礼拝供養すれば、福徳円満・智慧の勝れた男の子を生むことができるであろう。また、女の子を欲しいと思ったら、美しいだけではなく人々に敬愛されるような女の子を生むであろう。」

  このように述べられた後釈尊は、更に観世音菩薩のみ名を〝一心に称える〟ことによって、観世音菩薩は直ちに〝三十三身を示現して、妙法によって守護する〟ことを、具体的にお説きになるのであります。


観音によって如来寿量品の功徳と本仏釈尊の神通活動の無限なることを説く


 前品「妙音品」では、妙音菩薩が東の方から来て釈尊を讃歎し、当品の観世音菩薩は西の方より来たって釈尊を讃歎するので、東西の二方を挙げて十方を摂すとの意を天台・ 妙楽両大師も申されている通り、十方分身の諸仏により寿量本仏釈尊の威徳を讃歎することが、当姉妹品の趣旨であります。ところで、無尽意菩薩が頚(くび)にかけている宝珠の瓔珞を、観世音菩薩に供養すべく差し上げますが、観世音菩薩は敢えて受けようとしませんでした。しかし、釈尊のお勧めによってそれを受け取り、二分して一分を釈迦牟尼仏に奉り、一分を多宝仏塔に奉るのであります。

 なお妙楽大師は、当「普門品」の偈頌は羅什訳に無かったが、後学の者が羅什三蔵の深意を測らず、闍那崛多の訳した『添品法華経』によって羅什訳に加えたと申されています。従って、天台大師の『法華文句』には、この偈の解釈はありません。日蓮聖人は『法蓮鈔』〔(定)九五〇(縮)一一六五(類)八四〇〕に、
天台の云く、稽首(けいしゅ)妙法蓮華経、一帙八軸四七品、六万九千三八四、一一文文是真仏、真仏説法利衆生等と書れて候。」
と申されて、天台大師の学説をそのまま用いられています。

 既にご説明したごとく、「薬王菩薩品」は薬王菩薩の身業の偉大を語り、「妙音菩薩品」は、妙音菩薩のロ業の偉大を語り、「観世音菩薩普門品」は観世音菩薩の意業の偉大なることを語ったもので、本門の流通分にこの三品が説かれたのは、薬王・妙音・観音の三菩薩の、身・ロ・意三輪の妙化の絶対なることを顕すものであります。

 要するに当品の目的とするところは、釈尊の弟子である迹化の薬王・妙音・観音ですらこれだけの働きをするのであるから、況んや、本化の菩薩に於てをや、ということであります。況してや如来寿量本仏釈尊に於ては、言を待つまでも無いことであります。すなわち、「如来寿量品」の功徳と本仏釈尊の神通活動が、共に無限絶大であることを説き顕すことを以って、当品の根本精神とするのであります。

崇徳天皇及び菅公と烏丸光広


 七十五代崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子で、法華経のご信仰篤く、「観世音菩薩普門品」をお読みになって、
   ちかひをば 千尋の海にたとふなり 露もたのまば 数に入りなむ
と当品の意を御製されています。

 天満宮で名高い菅原道真は、「嘱累品」のところでも述べた通り、大変熱心な法華経信者でありました。「普門品」については、
   峯にふる 松のタ霧はれやらで 心づくしの 月ぞ待たるる
と詠じています。

 また烏丸光広(一五七九~一六三八)は、正二位・権大納言まで進んだ公家ですが、歌人として有名であります。若年より歌道を志し、細川幽斉について和歌を学んで慶長八年 (一六〇三)古今伝授を受け、徳川家光の歌道師範として江戸に二年滞在しました。法華経の信仰深い人で、法華経二十八品についての秀歌があります。その中の一首に、
   もらさじと 我もたのまん救ふべき 身をさまざまに 分くる誓は
と、当品の意を詠じたものがあります。

 日蓮聖人は、『諌暁八幡鈔』〔(定)一八四九(縮)二〇四〇(類)三八三〕に、
法華経の第五に云く、諸天昼夜に常に法の為の故に而も之れを衛護す文。経文の如んば、南無妙法蓮華経と申す人をば、大梵天帝釈日月四天等、昼夜に守護すべしと見えたり。又第六の巻に云く。或は己身を説き、或は佗身を説き、或は己身を示し、或は佗身を示し、或は己事を示し、或は佗事を示す文。観音尚三十三身を現じ、妙音又三十四身を現じ給ふ。教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや。天台云く、即ち是れ形を十界に垂れて、種種の像を作す等云云。
とご指南されています。

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